凜と生きる

私が経験した「鬱」というものについて

母について②

先日愛犬が亡くなってしばらくしてから

母の家に夫とご飯を食べに行った

回転寿司を食べてから母の家に寄り、愛犬の

ことを話した

母は「へえー!へえー!それはかわいそうに!」と言っていた

悲しみが伝わったというよりニュースを聞いたような感じだった

自宅に帰ってから母からメールがきた

「お寿司久しぶりに食べておいしかったわ

また行きたい」

というものだった

わたしは違和感を感じた

そこは「愛犬のこと悲しいけど元気出して」

じゃないのか?

このメールで昔の出来事を思い出した

 

小学校高学年の頃、セキセイインコを飼っていた

そのインコが死んでしまい、わたしは母にそれを伝えた

母はインコの亡骸を手にして、少し考えて

そのまま台所の赤いゴミ箱に捨てた

 

わたしはなんの言葉も発することができず

その様子を見ていた

何もできなかった

「やめて!ちゃんと埋めてあげたい!」

どうして言えなかったんだろう

わたしは大人になってからもずっとこの事を

悔やんでいた

わたしも母と同罪だと思ってきた

次に文鳥を飼った時は死んでしまった時に

ちゃんと埋めてあげた

子どもの時から、母のすることを否定したり

自分の欲求をはっきり言うことができなかった

わたしは傷ついていた

 

母は死生観がおかしいのか?情が薄いのか?

昔から身内や親戚が亡くなっても泣くのを見たことがないし、涙を流すどころかいつもとなんら変わりない様子だった

お見舞いに行ってもお葬式の時も

悲しそうな顔をしているのを見たことがない

わたしの父が亡くなった時もそうだった

呼吸器をして、もう間もなく息を引き取るという状況の時、母は父の枕元でわたしに普通に

「ねぇお昼、何食べる?」と聞いた

そしていよいよ呼吸器を外し、あと少しで亡くなるという時になって母はトイレに行ってしまい、呼吸器が外せなくて医師に

「早く奥さん呼んできてください!」と言われ

わたしの夫が探しに行くという一幕があった

亡くなってからも顔色ひとつ変わらない

なにかひとつの行事が終わった、みたいな

 

それでもなにかしらの悲しみや寂しさが隠れているのではと思ったが、とうとうそれをわたしは母から見つけられなかった

いくら仲の悪かった夫婦だったとは言え、

30年以上連れ添った相手なのに…

 

悲しみに限らず、いろんな感情に鈍い

わたし達娘が結婚した時も、なにやら式に参加してる人って感じで親としてのこみ上げるものや、振る舞いが全く見られなかった

席を外している時に食べかけのお肉をホテルの人に片付けられたと騒ぐような人だった

嬉しそうでもなく、

寂しそうでもなく、

これが娘でも親戚でも同じレベルだろうな、と

 

そして孫が産まれた時もそうだった

陣痛で苦しむわたしに「痛い?痛い?」と

興味津々で聞く

腰をさするとかいう考えがない

自分は帝王切開だったからわからないらしい

産まれてから実家に少しいたのだが

母は「首の座ってない赤ちゃんなんて抱っこできない」と言って一度も抱っこしなかった

その後も抱っこしたり、遊んだりする姿を

思い出すことはできない

孫が可愛くないわけじゃないんだろうけど

いつも他人行儀で湧き出る愛情とか親愛とかが

ないのだ

誰に対しても

 

母がそんないろんな感情を表すのは自分に対してだけだ

自分の怒りや不満や嫌なことなんかは、それはもう長々と熱弁する

きっと自分が、自分だけが最もかわいいのだろう

家族に愛情がないのではない

本当にわからないのだ、表現が

心と心を通わせることが苦手

愛情をお金に換算する人

 

だからわたしは心から母に甘えたことがない

小さい頃抱きしめられたり大好きだと言われた覚えもない

それでも愛情があったから育ててくれたのだろうが…

わたしは大人になってもその寂しさを持ったままだった