凜と生きる

私が経験した「鬱」というものについて

友だち

病気になる前からの友人は誰もいなくならなかった

今思えばみんな長い目でわたしを見守ってくれていたし、全く態度も変わらずにいてくれた

鬱病に偏見がある人はいなかったし、元々のわたしの性格の方を信じてくれていたんだと思う

 

鬱歴が長くなると、病気になってから出会う人も増えた

その中には病気のことを知らないまま親しく付き合うようになる人も何人かいた

始めは絶対「鬱病」のことは隠していた

段々その人が信用できると思えるようになると、隠してる方がやりにくいし、理解してほしいという欲求も出できた

それでなんとなく小出しに「ちょっと病気してて・・」と話し始めるようになった

あまり深くは話さなかった相手もいるし、病名もはっきり話した相手もいる

遊んでてもしんどくなったり、予定をぎりぎりでキャンセルしたり、昔の話をしたり・・という中で話した方がいいな、と判断していた

あからさまに偏見を見せる人はさすがにいなかった

でもどんな風に感じたかは、相手にしかわからない

なんとなく距離を保ちながらの人もいたかもしれない

 

しばらくの間なんの変りもなく付き合えてた人とうまくいかなくなったこともある

わたしがはっきり「それはできない」とNOが言えなかったり、

やると言ったことをやれなかったりして不信感をもたれたか、嫌な面と取られたか・・

断絶するほどではないが、付き合いが遠のいたりもした

その当時は自分のせいだと思って悲しかったけれど、理解されないのは仕方ないし

誰も悪くない

距離を置くのは最善だったと今は思う

 

知り合った人にどこまで「鬱病」のことを話すか、はいつもわたしのテーマだった

いまでもそれは考える

それほどまでにわたしという人物は「鬱病」無しでは語れない人間になっていた

 

わかってほしいと思ってる時期は期待がある分しんどかった

わからなくてあたりまえと思えてからはずっと楽になった

話さねばならないわけでもなかった

それは嘘をつくのとは違うから

言いたくないなら言わなくてもいいし、言いたければ恥じることなく言えばいいのだ

当時はそれすらわからなかったけど

 

鬱になってから知り合った人は病状があるわたしを本当のわたしだと思っている

それでも付き合ってくれてることはありがたいけど、いつも心の奥では

「本当のわたしはこんなんじゃないのに」と思っていた

自分という人間がまるで二人いるみたいだった

そして鬱である方の自分はいつまでも認められなかった

どっちもわたしなのにね

 

病気ゆえに友人とひどく揉めた苦い経験もある

それはまた今度