凜と生きる

私が経験した「鬱」というものについて

たった一人

元気になった今となっては当時の夫がなぜ

あんな酷い言葉を言っていたかわかる

夫が悪人で非道な人でないこともわかる

けれど病気の時はそんなのわからない

わからなくて仕方ないと思う

人の冷たさの裏の意味もわからないし

人の優しさもわからなかった

いや、表面的に優しくされてるのはわかるけど

相手がどんな思いでいたか、まで思いを馳せることは不可能だった

 

誰も悪くなかったと思う

きつい言葉を吐いた方も

そのまま受け取って泣いていた方も

 

あの頃は自分のことだけで精一杯だった

この世でわたしが一番辛いと言ってもいいほど

毎日が辛く苦しかった

そのわたしを見てる周りの人の気持ちなんて

全然考えられなかったな

周りも辛いだなんてその時はわからない

みんな元気でいいな、なんでわたしだけ…

周りを羨み、妬み、拗ねて悲観していた

 

 

治りかけの頃はそんな自分を責めた

自分勝手だったな、思いやりがなかったなと

自己嫌悪に陥った

でも

今は違う

そりゃ心配かけたし、迷惑もかけたけど

あの頃わたしは必死で生きていた

他の何も考えられないくらい真面目に真剣に

生きていた

だからわたしは悪くなかったと今は思う

ごめんなさいもありがとうもたくさん伝えたい

でも自分を責めたりもしない

 

鬱の人と接するのは難しいと思う

気持ちが伝わらないし、なんでも否定的だし

なんなら逆に責められるし、変なこと言って

自殺未遂でもされたら困るし、、

腫れ物に触るようになってしまうこともあるだろう

腹が立つこともあるだろう

わたしは鬱になった側だから、本当のところはわからない

でも鬱の人を前に困ってる人がいるとしたら

どうか待ってあげてと言いたい

励ますのも助言するのも待って

ただただ耳を傾けてあげて欲しい

何も言わないならただ側にいてあげて

何もできないとか無力感に悩むかもしれない

でもそんなことはない

助けるなんてこと、できないのだ

それは見捨てるとか救えないとかいうことではなくて、何もできなくて普通だということ

寄り添うって本当に難しいから

 

ひとりぼっちにしないであげて欲しいけど

一人でいたいと言うならそっと見守って欲しい

その人が鬱のトンネルを抜けたいと心から思うしか鬱から脱する方法はないのかもしれない

それでもわたしはわたしの鬱しか知らないから

全ての人に当てはまるわけではない

鬱の人が救われる確実な方法があればいいのに

と思う一方で、生きてく気力すら無くした人でもまた笑って生きられるようになることも必ずあるのだ

それは体の奥の奥の、自己治癒力というか

自分でコントロールできない部分が

「生きたい」「治りたい」と動き出す

なんとも不思議な感覚が沸き起こる

わたしはそれで救われた

結局、自分で自分を治したのだ

 

鬱になった側

その周りにいる人側

ここにはどうしても理解し合えない壁がある

どちらも間違ってないし悪くない

家族でも友達でも会社や社会でも

この溝はなかなか埋められない

鬱の人に優しい社会ってどんなものだろう

そもそも鬱にならない世の中であればいいのに

 

理解できなくても寄り添うことはできる

願うことも祈ることもできる

鬱の人は孤独だ

それはきっと間違いない

だけどいつか孤独だけどひとりぼっちではないことに気づいて欲しい

そして自分の持つ力を信じて欲しい

信じられないと思うけど心の隅に置いてて欲しい

簡単に「希望」とか言いたくないけど、

でも「絶望」でもないことを

鬱の人も鬱ではない人も知ってて欲しい